帽子 大輔

生年月日
1977年2月26日
出身地
松山市
資格
ジュニア野菜ソムリエ
趣味
サッカー・料理(※両方とも上手なわけではない)
好きな言葉
「逆もまた真なり」「経世済民」
長所
じっくり物事を考える
短所
笑顔が苦手なとこ

学歴

1992年
道後中学校卒業
1995年
新田高等学校卒業
1999年
高野山大学仏教学部卒業

愛媛県議会議員 帽子大輔(ぼうしだいすけ)

経歴

2011年
道後山の手ホテル 代表取締役(現職)
2012年
(社)松山青年会議所 理事長
(財)松山市男女共同参画推進財団 理事
2013年
愛媛県旅館ホテル生活衛生同業組合 青年部長
(公社)日本青年会議所 愛媛ブロック協議会 会長
松山市障がい者総合支援協議会 委員
2014年
松山市青少年育成市民会議 会長
まつやま子ども育成会議 委員
2015年
愛媛県議会議員 初当選(38歳)
総務企画国体委員会 委員
少子高齢化社会対策特別委員会 委員
2016年
建設委員会 委員
行政改革・地方分権特別委員会 委員
愛媛県調理師会 顧問(現職)
(公社)全日本司厨士協会愛媛県本部 顧問(現職)
2017年
(公社)日本青年会議所四国地区協議会 会長
2018年
愛媛県議会経済企業委員会 副委員長(現職)

党歴

2018年
自由民主党愛媛県支部連合会 学生担当部長

エピソード

幼少期

幼少期

  • 1977年2月26日、愛媛県松山市に生まれる。
  • 小さい頃からおとなしい性格で、物静かだった。
  • 幼稚園に行くのが嫌いで、いつもバス停で行きたくないと泣いていた。
  • 将来の夢はロボットを作る博士になりたいと、レゴブロックで遊んでいた。
  • 近所の野良犬を拾って来て、親の反対があったが、わがままを言い、最終的に飼うことになった。当時生活は裕福ではなかったが、せめて犬の名前だけはということで、近所の友達の提案で「リッチ」と名付けた。

小学校時代

小学校時代

  • ボールを蹴るのが好きで、いつもサッカーをしていた。当時キャプテン翼が流行っていたので、オーバーヘッドキックの練習をしていたら、空振りして鎖骨を折った。
  • 小学校3年生の時に、母親を事故で亡くした。当時私が8歳、妹が3歳だった。弔問客を状況が理解できない妹が満面の笑みで迎えるその光景があまりにも悲しく、今でも忘れられない。
  • 授業中、勉強は中の中だったが、思ったことは必ず挙手をして発言した。基本的には目立つ事が好きではなかったが、自分が感じた事は、言わずにはいられなかった。

中学校時代

中学校時代

  • 参観日や親が参加するイベントがあると、おばあちゃんが代わりにくるのが申し訳ないと思い、案内文を渡さなかった。今思えば、おばあちゃんに悪いことをしたと思っている。
  • 夏休みや冬休みになると、実家の旅館で皿洗いと布団の上げ下げのアルバイトをしていた。当時、全額貯金をしていたはずなのだが、あのお金はどこにいったのだろう?

高校時代

高校時代

  • 高校からは校内の部活ではなく、社会人のクラブに入ってサッカーをしたいと思っていたら、校外での活動は届け出が必要だと担任の先生に言われ、「何故そこまで管理されなければならないのか?」と校長室に突撃した。理由は忘れてしまったが、それなりに納得する説明をされ、上手く丸め込まれてしまった。ただ、その校長先生は本当に生徒思いの良い先生だった。
  • お弁当を自分で作ることになり、前の日の残りや時にはご飯とカレーという反則技を使いながら、高校生活を乗り切った。お弁当を作り続ける事は大変だなーとつくづく思った。あとあの頃はいつもお腹がすいていた。若かった(笑)。

大学時代

大学時代

  • 高野山大学は標高800mの盆地にあり、高野町の人口4000人のうち、1000人が僧侶という町で、国宝級の建物や仏像も多く、神秘的で荘厳な雰囲気だった。
  • 家賃が4畳半で1万5000円という下宿に住むことになった。ただ、トイレもお風呂も共同の上、お風呂は月・水・金の19:00〜21:00の2時間しか入れず不便だったが、愛媛県にゆかりのある普賢院の宿坊でアルバイトをしながら、お風呂を使わせてもらっていた。
  • このようなご縁もあり、得度をする時は、普賢院の森寛勝住職に名前をお願いすることとなり、森住職から「勝」という一文字とお大師様から「弘」という一文字を使わせて頂き、「勝弘」という僧名を頂いた。
  • 私が物事を深く考えてから行動するようになったのは、この4年間が大きかったと思う。

社会人時代

社会人時代

  • 大学卒業後、カリフォルニアの語学学校に短期留学をした。何も考えずただ視野を拡げたいという気持ちだったが、多くの出会いに恵まれた。この時の体験が、自分の考え方の幅を広げた事は間違いない。
  • 実家の旅館に戻り、企画などに携わったが、まだインターネットが普及していない時代に、コストをかけず小さな魅力を伝えることは難しく、抜本的な経営形態が必要だと感じた。
  • オールドイングランドという新しいコンセプトのもと、旅館業からホテル業に転換することを決断した。この時、「古い木造旅館を壊すなんて・・・」とお叱りの声も頂いたが、生き残ることに必死だったし、歴史ある道後を汚すようなホテルにはしないという自負もあった。ただ、解体が始まる当日、壊れゆく旅館を涙なしで見ることは出来なかった。
  • 2004年にオールドイングランド道後山の手ホテルをオープン。当時の社長(親父)と私(専務)以外は全員が、ホテルオープンのために入社したスタッフだったが、みんなで朝から夜中まで、アイデアを出し、改善し、働き続けた。その状況が2年間は続いたと思う。今考えればむちゃくちゃな状況だったが、今の事業があるのは、一緒に立ち上げたスタッフのお陰だと思っている。
  • ホテルがオープンして2年が経った頃。自ら企業経営をする中、いくら一つの会社が頑張っても、地域全体が良くならなければみんなの生活が良くならないのではないかと思うようになり、地域活動や社会活動に積極的に参加するようになった。一方で世間ではサブプライムローン問題が起こり、アメリカのみならず、国内の景気も悪くなる中、投機マネーや株主のための企業経営が優先されるニュースが後を絶たず、この頃から利益優先の社会に疑問を持ち、企業の存在意義とは何なのかと考えるようになった。
  • 2011年3月11日東日本大震災が発災。多くの被害が拡大していく一方で、被災者がお互いに励まし合い前向きに生きている中、国家が国家として機能しない状況に苛立ちを覚えた。その後の対応も時間がかかり、政治は国民を救うためにあるのではないのかと憤りを感じたが、その思いを打つけるべき政権は、あっという間に崩壊していった。
  • 2012年9月、野党であった自民党の総裁選挙において、一回目の投票で2位だった安倍晋三が決選投票で勝利し総裁に選出された。政治の世界で一度失敗しても、確かな志を持ち続けていれば、またチャンスを手にする事があるのだと、テレビの前で涙した。
  • 2014年10月、かねてからの政治に対しての自分の思いが高まり、翌年行われる愛媛県議会議員選挙への出馬表明をした。
  • 出馬表明をしてからは、仲が良ければ良い人ほど、自分を見られる目が厳しくなることを感じた。政治家を志すことは、時に応援を頂くこともあるが、時に孤独であることも知った。しかし、世のため、人のため、地域のため、という気持ちを持ち続け選挙戦の最終日を迎えたとき、私は1人ではなかったことに気づいた。38年間という限られた人生の中で出会った、多くの人に支えられて投票日までたどり着いた事を本当に有り難く思った。
  • 2015年4月、38歳で初当選を果たす。テレビでの「当確」がなかなか出ず、いろんな思いが頭を巡り、「当確」が出たときには喜ぶタイミングを逸してしまった。しかし、報告会場に到着し、自分のことのように喜んでくれている、支援者の皆さんの顔をみて、本当に感謝の気持ちが止まらなかった。